台詞を科学する１

　この台詞、きっとご記憶の方が多いと思う。１９９３年１月に放送された、かの「夢の城」の中で、このひと言の台詞を何度も何度もダメ出しされる場面が流れたのだから。私は当時、たあたんの存在を知ったばかりだったが、ギロッと目を剥く瞬間に素性がふっと浮かび上がる、曰くありげな「蕎麦屋さん」は、稽古風景だけでも結構印象的な存在であった。

たあたんが演じた杉野十平次は、いわゆる「四十七士」のひとりで、赤穂城を明け渡した後は江戸に出て蕎麦屋に身をやつし、吉良邸の様子を探ったり同志と連絡を取り合ったりしているという役回りであった。偽名まで付いていて「十兵衛さん」。ちなみにイチロさんが扮した岡野金右衛門の偽名は「佐吉さん」だそうな。

蕎麦屋の十兵衛さん、この場面では、大石内蔵助らが会合を開いている本所林町の邸宅の前で、見張りをしながら蕎麦を売っているという設定である。同志なのに会合に出なくてもいいのかな？なんて事は言いっこなし(^^;)。武士からいきなり「江戸前の蕎麦屋」になれるものなのかな、関西人なんだから味の好みも違うだろうに、なんて事もこの際無視(^^;;)。とにかく、そこそこにお客さんもいる、それなりの蕎麦屋さんなのだ。

そこへさりげなく登場するのが、紫ともちゃん扮するお蘭。彼女は言うまでもなく、吉良方の密偵である。お蘭はかねてから大石の身辺を探っていたのだが、この夜は彼らの会合の様子をうかがっていた。で、蕎麦屋の十兵衛さんに「姐さん、あそこに何かありますかい」と見咎められ、蕎麦の代金を払おうとしたお蘭、差し出された手を見て「竹刀だこだね」と話を逸らすように言う。思わず「昼間は叩き大工をしているから」とごまかす蕎麦屋の十兵衛さん。しかしお蘭は「見張り大工じゃないのかい」。挑発するようなその口調に、杉野が思わず口走る台詞が、つまり「ねえさん」。

　このやりとりは、お蘭と杉野との一種の心理戦である。『忠臣蔵』という作品、この心理戦が結構多い。大石とお蘭のやりとりなどは、最初のうち殆どそういう感じ。

テレビで稽古場風景を見たとき、正直言って「たあたんの言い方でもおかしくはないけどなあ」と思った。ちょっとはぐらかすような口調だったが、受け答えとしては、十分なんだけどなって。でも、よく考えてみると、台詞のやりとりとしてはいいけど、それが杉野という役にあっているかどうかというと、そこには疑問がある。

杉野は血気盛んな若者である。主君の仇を討つために、蕎麦屋になってまで活動している。もともとは赤穂の人間であるから、それほど世慣れているとも思えない。どちらかというと「熱血実直」だろう。そういう人間が、密偵をうまくはぐらかすような言い方をするとは思えない。やはり、一瞬でもギョッとして声を荒げてしまうだろう。

そのあたりの人物に対するイメージが、この短い台詞から推測できてしまう。演じている方は苦労するんだろうけど、観客としたらとってもおもしろい。

私が実際にこの場面を見たのは、東京公演も中盤にさしかかったころだった。だから、テレビで見たときの印象とはかなり違っていた。何せ６年も前のことだからウロ覚えなんだけど、一瞬に思わず殺気が迸るような雰囲気が感じられた。

やはり積み重ねるほどに深まって行くのが舞台の醍醐味なんだなあ。このときは、受け止める相手がやはり芸達者でならしたともちゃんだったから、余計に密度の高まりがあったのだと思う。

話はいきなり逸れるけど(^^;)、「ねえさん」という台詞はごく最近にも聞いた。まだ記憶に新しい『凍てついた明日』の中で、である。『忠臣蔵』では「ねえさん」は姐さんだったが、『凍てついた明日』ではクライドが姉ネルを呼ぶ、つまり姉さんであった。聞いている分には同じでも、意味は全然違う。

そして、たあたんの台詞の言い方もまた、『忠臣蔵』のときとは全然違っていた。再会した驚き、懐かしい思い出、そして、永遠の別れの哀しみが、それぞれの場面での「ねえさん」に込められていた。短い台詞だからこそ、その一瞬にふと感じるそれぞれの思いが伝わってくるような気がするのだ（『凍てついた明日』については、まだまだいーっぱい科学してみたいので、お楽しみに）。